← 北庭
北庭は、南の恩賜門内にあった敷石を利用し、正方形の石と苔を幾何学的な市松模様に配しています。
西庭は、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図しています。
東庭は、東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配しています。
昭和の名庭園師とうたわれた重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四つの庭を合わせて、釈迦成道(八相道)を表現し、「八相の庭」と命名されています。
「偃月橋」を渡ったところ、本坊庫裏の背後に
位置する塔頭「龍吟庵(りょうぎんあん)」→
この庵は、東福寺三世・南禅寺開山である無関普門のご住居・塔所(墓所)として、入寂直前に創建されました。
東福寺塔頭の第一位寺院で、室町期に造営された方丈は、書院造と寝殿造りが融合した、現存する日本最古の方丈建築として、建物全体が国宝とのことです。
毎年11月に一般公開されていて、ちょうど拝観することができました。
← 龍吟庵 西庭 (龍門の庭、清光苑)
龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現しています。竹垣には稲妻模様が施されています。
龍吟庵には、南・西・東にそれぞれ枯山水の庭があります。
南庭(無の庭)
… 方丈の前庭で、白砂を敷いただけのシンプルな庭になっています。
東庭(不離の庭) … 大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表しています。鞍馬の赤石を砕いたものを用いた、カラー版の枯山水です。 いずれも、重森三鈴の作です。
次に、本房の東に架かる、「通天橋」を歩いてみました。
橋の南端に拝観受付があって、通橋料を払います。→
「通天橋」は、仏殿と常楽庵の間を隔てる渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられます。
昭和34年(1959年)台風で崩壊しましたが、2年後に再建、その際に橋脚部分は鉄筋コンクリートとなりました。
← 「通天橋」の左右は、楓の木々がびっしりと…。
境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多く植えられていて、紅葉の季節にはたいへんな賑わいをみせます。
もとは桜の木が植わっていたのですが、「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたとか。
「通天橋」の中ほどの物見台から、
「洗玉澗」を見渡したところ →
紅葉のころの素晴らしさはいかばかりかと思われますが、今日も清々しい緑が広がっていました。
かすかに屋根が見えるのは、寺の外の一般道にかかる「臥雲橋」の屋根です。
洗玉澗一帯に繁る楓は俗に「通天紅葉」と呼ばれ、開山聖一国師円爾弁円が宋より持ち帰ったものと伝えられています。葉は三つに分かれ、黄金色に染まるのが特徴で、数は二千本に及んでいるといいます。
← 楓の上に、方丈の屋根が浮かんでいます。
圧倒的な楓ですね。
これが紅葉すると思うと…。→
← 常楽庵
主要伽藍の北側に洗玉澗渓谷を挟んで位置し、開山円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂を中心とした一画です。
「通天橋」は、御堂とこの庵を結んで架けられているということですね。
開山堂・昭堂 →
文政2年(1819年)焼失後、同9年(1826年)までに再建されました。
開山堂の中央部分は2階建の楼閣となっており、伝衣閣(でんねかく)と称します。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び、「京の五閣」といわれています。
常楽庵から御堂へ戻る道は、通天橋を通らずに、洗玉澗へ降りて渓谷を渡る道を歩いてみました。
← 渓谷から、通天橋を見上げたところです。
あまり、風景の写真ばかりではと思い、及ばずながら(…?)特別出演です(笑)。
洗玉澗の渓谷から御堂へ、楓林の中を戻ります。→
ここで一旦、東福寺から西へ出て、先ほど通天橋から見えていた、一般道に架かる「臥雲橋」を渡ってみました。
← この橋は一般道ですから、
自転車やオートバイも通って
いました。
先ほど通った「通天橋」が
見えています。 →
圧倒的な楓林です。ここから見る紅葉も見事なことでしょう。
その昔は、桜の木も見事だった洗玉澗だったと伝えられますが、今は一本も桜はありません。
室町時代、東福寺の画僧吉山明兆が、時の将軍足利義持からその画の素晴らしさを讃えられ、褒美を何なりとといわれたとき、「桜の木を切ってください」とお願いしたのだそうです。
明兆は、桜に人々が浮かれるのを、仏道修業の妨げになると考えたのでしょうね。
因みに、この写真の真ん中を流れている…東福寺の境内を流れ、御堂と開山堂との間に渓谷を刻む川を、「三ッ橋川」と言います。もちろん、「通天橋」「堰月橋」「臥雲橋」の三つの名橋が架かる川という意味の命名でしょう。
臥雲橋を渡って、そのまま北へ上り、「泉涌寺」へと歩きました。地図で見ると近いのですが、東山の傾斜地にあり、また京都の古い住宅地の中の小道を地図も持たずに歩いていったので、袋小路にぶつかって引き替えしてきたりして、結構、時間がかかりました。
やっとたどり着いた泉涌寺道の入り口(総門)から、まだ延々と塔頭寺院が並ぶ参道が続き、泉涌寺の大門ははるか彼方でした。泉涌寺も、これまた大きなお寺です。
← 途中の「悲田院」に寄りました。
悲田院(ひでんいん)とは、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に建てられたのが日本での最初とする伝承があります。
この寺の寺伝にも、聖徳太子が鴨川河畔に身寄りの無い老人や子どもを収容するために建てられたのが、この寺の始まりとありました。
東山連峰の最南端、月輪山の中腹に位置する
この寺の境内からは、京都盆地が一望されます。 →
「大文字の送り火の夜に、またおいでなさい」と住職は言ってくれました。
↓やっと泉涌寺の大門に着きました。↓
泉涌寺は、律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えました。
歴代天皇や皇族が多く山内に葬られているため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)泉涌寺」と尊称されています。
(「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意です)
仏殿とそのむこうは舎利殿 →
寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様式です。
ご本尊は、過去・現在・来世を表わす釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置していますが、中心仏の釈迦如来像は、修理出張中でした。
← 御座所庭園
仏殿・舎利殿の背後に建つ御座所は、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがあります。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用される部屋です。
平成期に入ってからは、即位報ご告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年のご報告(1999年)などの際に、今上天皇が泉涌寺を訪問され、この部屋を使用されています。
御座所の屋根の上に、紅葉が色づいていました。→
もう1ヶ月もすれば、京都は燃えるような紅葉の季節を迎えるのでしょう。
![]() |
---|
楊貴妃観音、パンフより |
大門のすぐ左手に「楊貴妃観音堂」があり、その御名のとおりの美人観音様がいらっしゃいます。
建長7年(1255年)この寺の実質的な開基(創立者、鎌倉時代)である月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)の弟子湛海が仏舎利とともに中国・南宋から請来したものだとか。
作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられます。長らく100年に一度だけ公開する秘仏でしたが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されています。
「さすがに美人ですね」と観音堂の守人のおじさんに声をかけたら、
「京都一ですわ」と鼻が高そうでした。
東福寺へ戻り、車に乗り込む前に、雪舟ゆかりの寺「芬陀院(ふんだいん)」へ寄りました。
ここは元亨年間(1321-1324)に当時の関白であった一条内経が父の菩提を弔うために創建した塔頭で、水墨画を大成した雪舟の作と伝えられる名庭があることから雪舟寺とも呼ばれています。
← 雪舟作と伝えられる前庭、
石組みで鶴と亀を表していて
「鶴亀の庭」と呼ばれています。
雪舟が少年時代をすごした岡山県の「宝福寺」は東福寺の末寺であり、雪舟が本山へ来たときには、この寺に起居していました。
茶室「図南亭」の丸窓から見る東庭 →
この東庭は、荒廃していた雪舟庭園(南面前庭)を重森三鈴が復元修理したとき、新たに彼が作庭したものです。
昨夜、僕が見ていた「サライ」の表紙に用いられていたのが、この芬陀院の丸窓の写真でした。このスナップに惹かれて、急な京都行を思い立ったという部分もありますね。
時刻はお昼過ぎ…。東福寺に戻って、もう一度、巨大な山門をパチリ…。
「秋、紅葉の盛りに、もう一度呼んでくださいね」と頼んでおきました。
南区の1号線沿い、中華料理「あたか飯店 京都店」で遅いお昼ご飯を食べて、そのまま南へ下がり、京都南インターから名神高速道路に乗って、帰途に就きました。
土山SAあたり、前方に浮かんでいるのは夏の雲…? →
帰りも50分ほど…。夕方には帰り着き、諸見里しのぶの日本女子プロぶっちぎり優勝を見ていました。
物見遊山トッブへ