【172】
2009 
洛南の小さい秋     2009.09.13
     - 三十三間堂・東福寺・泉涌寺 -
 

 12日(土)夜、「サライ」のページをめくっていたら、
東福寺塔頭「芬陀院」の丸窓の景色が目に留りました。13日(日)の天気は晴れ、行くっきゃないですね!


 午前5時35分に我が家を出発、伊勢道から新名神を走り、6時25分には京都東インターを降りていました。 所要時間50分、新名神の開通で京都は近くなりました。



← 五条バイパス


 途中の喫茶店でモーニングを食べたあと、京都市内へ入りました。


 東大路を南へ下ります→


   日曜日の早朝だからか、道路はガラガラでした。


 午前7時45分、「三十三間堂(蓮華王院)」へ到着。


← 新装成って、朱色も鮮やかな「三十三間堂」の東大門


 このお寺は、1164(長寛2)年、鳥辺山麓(現在の阿弥陀が峰)に平 清盛が寄進建立しました。約80年後に焼失しましたが、すぐに復興に取り掛かり、1266(文永3)年、再建されました。


 章くん、小学校5年生のの修学旅行以来、実にン十年ぶりの三十三間堂です。駐車場の料金は無料なのですが、「40分以内でお願いします」といわれて、駐車券に『8時0分入場』と記入されました。
 開門時間の8時になりました。一番に拝観券を買って、お堂へ…。

                 
 本堂の表側です →


 このお寺の正式名称は「蓮華王院」。正面の柱の間が33あることから(ホントは後述するようにちょっと違う)、三十三間堂と呼ばれています。和様の入母屋、本瓦葺の総ヒノキ造りで、南北に約120mあります。堂内で100m走ができる、日本一長いお堂だとか。
 裏(西側)の縁側で、「通し矢」が行われました。


 本堂内には、一千一体の千手観音と、観音様をお守りする二十八部衆、そして風神・雷神像が祀られています。


← 堂内は写真撮影禁止のため、パンフレットより


 東に向いたお堂の障子を通して照る朝日を受けて、ひな壇に並ぶ一千一体の千手観音様たちは、今にも歌い出すか、踊りだすかのように、華やかで楽しそうでした。


  そして、この像は観音様をお守りする
   二十八部衆のひとり「金色孔雀王」。パンフレットより →



   兜に象を彫し、足にはブーツを履く…と解説にありました。


 28部衆の中で、特にこの像を取り上げたのは、先日読み終えた三島由紀夫著「暁の寺」の中に、『ヒンズーの古い神々が、仏教世界へ音を立ててなだれ込んできた』その象徴として、孔雀明王経に詠われている「金色孔雀王」が登場するので、印象が強かったからです。
 三島は、もとシヴァ神の妻カーリーの化神だから、金色孔雀王は女神だと書いています。


 それにしても、この仏たちの包み込むような暖かさは、何なのでしょう。「サライ」にも、東から日の射す朝のうちに訪れよと書いてありましたが、障子戸から差し込む太陽の光に浮かぶ一千一体の千手観音像は、それぞれに異なるお顔立ちながら、一様にかすかな微笑を湛えて立ち、「これだけの私たちがいれば、恐いものは何もないのよ」と言っているような、慈愛あふれる暖かさに満ち満ちていました。
 その前に立つ、二十八部衆と風神・雷神の生き生きと躍動感溢れるいでたちは、見るものの心を浮き立てる活動力がありました。
 興味の尽きない仏様たちとの逢瀬だったのですが、駐車場の時間が気になって外へ…。本堂の東正面から南側を通り、裏へと回りました。
 

                  本堂の裏手 西縁 →


 世に名高い「三十三間堂(蓮華王院)の通し矢」は、この縁側で行われました。
 南から北へ射たといいますから、この写真の方向です。手前の南端へ座って、上半身のみで強弓を引き絞り、北端へと放ちました
 
← 縁側の北端(的側)に掲げられている掲示板


 西縁は、全長(小口から小口まで)121.7m、高さ4.5ー5.3m、幅2.36m。外縁の幅は約4.4mあります。
 なお、長さについての通説である、「33ある柱間は長さ2間に相当するから、堂の全長は33×2×1.82で約120m」とする計算は誤りで、柱間は35あり、幅も中央3間を除き3.3mです。


             
西縁を北端から撮ったところ →


 通し矢は、距離(全堂、半堂、五十間など)、時間(一昼夜、日中)、矢数(無制限、千射、百射)を組み合わせて様々な競技が行われました。半堂は堂の中程から射て半分の距離を射通した本数を競うもので、年少者が行いましたが、やはり全堂大矢数が通し矢の花形でした。


 明確な記録が残るのは、慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛(清洲藩、100本中51本を射通した)が最初です。
 寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎打ちの様相を呈し、次々に記録が更新されました。寛文9年(1669年)5月2日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中8,000本を通しましたが、貞享3年(1686年)4月27日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中8,133本を通して天下一となりました。これが現在までの最高記録です。


← 本堂と前庭です。


 9時10分、三十三間堂をあとにしました。圧倒的な数の千手観音様、躍動感あふれる風塵・雷神、さまざまな表情に魅せられる二十八部衆像など、まだまだ尽きない興味があったのですが、駐車場40分がネック…。もうすでに70分…、30分もオーバーしています。
 駐車場では時間をチェックされるわけではないのですが、40分…と言われると急いでしまいます。このたくさんの仏様たちとの至福のときにひたるには、もう少し時間が欲しかったですね。


 午前9時30分、東海道線を南に渡り、「東福寺」へとやってきました。これまで何度となく京都を訪れているのに、このお寺は今まで訪問したことがなかったのです。
 
 西の「日下門」から境内に入って、東司の南側の駐車場へ車を停めさせてもらいました。
 東司とはトイレのこと。でも、あなどってはいけません。ここのトイレは、室町時代から唯一伝わる日本最大最古の禅宗式の東司(トイレ)の遺構で、多くの修行僧が一斉に用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん)」とも呼ばれる文化財なのです。


           
「百雪隠」は、写真左の建物です。 →


← 車を降りると、目の前に「三門」がそびえています。
 その大きさに、ただただビックリしてしまいました。



 東福寺は、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失していますが、この三門は応永32年(1425年)の再建で、現存する禅寺の三門としては日本最古のものだとか。上層には釈迦如来と十六羅漢を安置する、五間三戸二重門です。


               本堂(仏殿兼法堂) →


 明治14年(1881年)に仏殿と法堂が焼けたあと、大正6年(1917年)から再建工事にかかり、昭和3年(1934年)に完成しました。入母屋造、裳階(もこし)付き。高さ25.5m、間口41.4mの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大のものと言われています。
 天井の竜の絵は堂本印象筆。本尊釈迦三尊像(本尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)は、明治14年の火災後に万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作だとか。
 今日は、ご本尊は修理のためご出張中でした。


                  方丈の南庭 →


 荒海の砂紋の中に蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁の四仙島を表現した配石で、右方には五山が築山として表現されているという。


 ただ、僕には枯山水の趣向がいまひとつよく解らない。自然に存在する数多くの山や川、滝などのなかから特徴的な姿の抽象的表現を極限までつきつめると、石ひとつで山ひとつ…あるいは風景全体…ひいては全宇宙を表すとなるのでしょうが、毎日眺めながら、四季の移り変わりを観るところに庭園の美はあるとと思うのです。
 砂と石に、何の情緒があろうか…と言っているのは、抽象美を理解しようとしない、僕の修業が足らないところでしょうか。

← 北庭


 北庭は、南の恩賜門内にあった敷石を利用し、正方形の石と苔を幾何学的な市松模様に配しています。
 西庭は、さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図しています。
 東庭は、東司の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様の地割に配しています。

 昭和の名庭園師とうたわれた重森三玲によって昭和13年(1938年)に作庭され、方丈を囲んで四つの庭を合わせて、釈迦成道(八相道)を表現し、「八相の庭」と命名されています。


    「偃月橋」を渡ったところ、本坊庫裏の背後に
      位置する塔頭「龍吟庵(りょうぎんあん)」→



 この庵は、東福寺三世・南禅寺開山である無関普門のご住居・塔所(墓所)として、入寂直前に創建されました。
 東福寺塔頭の第一位寺院で、室町期に造営された方丈は、書院造と寝殿造りが融合した、現存する日本最古の方丈建築として、建物全体が国宝とのことです。
 毎年11月に一般公開されていて、ちょうど拝観することができました。


← 龍吟庵 西庭 (龍門の庭、清光苑)


 龍吟庵の寺号に因んで、龍が海から顔を出して黒雲に乗って昇天する姿を石組みによって表現しています。竹垣には稲妻模様が施されています。


 龍吟庵には、南・西・東にそれぞれ枯山水の庭があります。
 南庭(無の庭) … 方丈の前庭で、白砂を敷いただけのシンプルな庭になっています。
 東庭(不離の庭) … 大明国師が幼少の頃、熱病にかかって山中に捨てられた時、二頭の犬が国師の身を狼の襲撃から守ったという故事を石組みで表しています。鞍馬の赤石を砕いたものを用いた、カラー版の枯山水です。 いずれも、重森三鈴の作です。


      
次に、本房の東に架かる、「通天橋」を歩いてみました。
        橋の南端に拝観受付があって、通橋料を払います。→


 「通天橋」は、仏殿と常楽庵の間を隔てる渓谷「洗玉澗(せんぎょくかん)」に架けられた橋廊で、天授6年(1380年)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられます。
 昭和34年(1959年)台風で崩壊しましたが、2年後に再建、その際に橋脚部分は鉄筋コンクリートとなりました。


← 「通天橋」の左右は、楓の木々がびっしりと…。


 境内には宋から伝わった「通天モミジ」と呼ばれる三葉楓(葉先が3つにわかれている)など楓の木が多く植えられていて、紅葉の季節にはたいへんな賑わいをみせます。
 もとは桜の木が植わっていたのですが、「後世に遊興の場になる」という理由で伐採され、楓の木が植えられたとか。


          「通天橋」の中ほどの物見台から、
             「洗玉澗」を見渡したところ →



 紅葉のころの素晴らしさはいかばかりかと思われますが、今日も清々しい緑が広がっていました。
 かすかに屋根が見えるのは、寺の外の一般道にかかる「臥雲橋」の屋根です。


 洗玉澗一帯に繁る楓は俗に「通天紅葉」と呼ばれ、開山聖一国師円爾弁円が宋より持ち帰ったものと伝えられています。葉は三つに分かれ、黄金色に染まるのが特徴で、数は二千本に及んでいるといいます。


← 楓の上に、方丈の屋根が浮かんでいます。


  圧倒的な楓ですね。
                  これが紅葉すると思うと…。→



← 常楽庵


 主要伽藍の北側に洗玉澗渓谷を挟んで位置し、開山円爾像を安置する開山堂とその手前の昭堂を中心とした一画です。

「通天橋」は、御堂とこの庵を結んで架けられているということですね。


                    開山堂・昭堂 →


 文政2年(1819年)焼失後、同9年(1826年)までに再建されました。
 開山堂の中央部分は2階建の楼閣となっており、伝衣閣(でんねかく)と称します。金閣(鹿苑寺)、銀閣(慈照寺)、飛雲閣(西本願寺)、呑湖閣(大徳寺塔頭芳春院)と並び、「京の五閣」といわれています。

 常楽庵から御堂へ戻る道は、通天橋を通らずに、洗玉澗へ降りて渓谷を渡る道を歩いてみました。


← 渓谷から、通天橋を見上げたところです。


 あまり、風景の写真ばかりではと思い、及ばずながら(…?)特別出演です(笑)。


      
洗玉澗の渓谷から御堂へ、楓林の中を戻ります。→


 ここで一旦、東福寺から西へ出て、先ほど通天橋から見えていた、一般道に架かる「臥雲橋」を渡ってみました。


← この橋は一般道ですから、
 自転車やオートバイも通って
 いました。



   
先ほど通った「通天橋」が
     見えています。 →



 圧倒的な楓林です。ここから見る紅葉も見事なことでしょう。
 その昔は、桜の木も見事だった洗玉澗だったと伝えられますが、今は一本も桜はありません。
 室町時代、東福寺の画僧吉山明兆が、時の将軍足利義持からその画の素晴らしさを讃えられ、褒美を何なりとといわれたとき、「桜の木を切ってください」とお願いしたのだそうです。
 明兆は、桜に人々が浮かれるのを、仏道修業の妨げになると考えたのでしょうね。


 因みに、この写真の真ん中を流れている…東福寺の境内を流れ、御堂と開山堂との間に渓谷を刻む川を、「三ッ橋川」と言います。もちろん、「通天橋」「堰月橋」「臥雲橋」の三つの名橋が架かる川という意味の命名でしょう。


 臥雲橋を渡って、そのまま北へ上り、「泉涌寺」へと歩きました。地図で見ると近いのですが、東山の傾斜地にあり、また京都の古い住宅地の中の小道を地図も持たずに歩いていったので、袋小路にぶつかって引き替えしてきたりして、結構、時間がかかりました。
 やっとたどり着いた泉涌寺道の入り口(総門)から、まだ延々と塔頭寺院が並ぶ参道が続き、泉涌寺の大門ははるか彼方でした。泉涌寺も、これまた大きなお寺です。
 

← 途中の「悲田院」に寄りました。


悲田院(ひでんいん)とは、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設のことで、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に建てられたのが日本での最初とする伝承があります。
 この寺の寺伝にも、聖徳太子が鴨川河畔に身寄りの無い老人や子どもを収容するために建てられたのが、この寺の始まりとありました。


   東山連峰の最南端、月輪山の中腹に位置する
     この寺の境内からは、京都盆地が一望されます。 →



 「大文字の送り火の夜に、またおいでなさい」と住職は言ってくれました。


 ↓やっと泉涌寺の大門に着きました。

 泉涌寺は、律を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えました。
 歴代天皇や皇族が多く山内に葬られているため、皇室の香華院(こうげいん)となり、「御寺(みてら)泉涌寺」と尊称されています。
(「香華院」とは、香をたき、花を供える場所、すなわち、先祖が眠る寺の意です)
  


       仏殿とそのむこうは舎利殿 →


 寛文8年(1668年)、徳川家綱の援助で再建。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様式です。
 ご本尊は、過去・現在・来世を表わす釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置していますが、中心仏の釈迦如来像は、修理出張中でした。


← 御座所庭園


 仏殿・舎利殿の背後に建つ御座所は、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがあります。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用される部屋です。


 平成期に入ってからは、即位報ご告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年のご報告(1999年)などの際に、今上天皇が泉涌寺を訪問され、この部屋を使用されています。


      御座所の屋根の上に、紅葉が色づいていました。→


 もう1ヶ月もすれば、京都は燃えるような紅葉の季節を迎えるのでしょう。

楊貴妃観音パンフより

 大門のすぐ左手に「楊貴妃観音堂」があり、その御名のとおりの美人観音様がいらっしゃいます。
 建長7年(1255年)この寺の実質的な開基(創立者、鎌倉時代)である月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)の弟子湛海が仏舎利とともに中国・南宋から請来したものだとか。
 作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられます。長らく100年に一度だけ公開する秘仏でしたが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されています。


 「さすがに美人ですね」と観音堂の守人のおじさんに声をかけたら、
「京都一ですわ」と鼻が高そうでした。


 東福寺へ戻り、車に乗り込む前に、雪舟ゆかりの寺「芬陀院(ふんだいん)」へ寄りました。


 ここは元亨年間(1321-1324)に当時の関白であった一条内経が父の菩提を弔うために創建した塔頭で、水墨画を大成した雪舟の作と伝えられる名庭があることから雪舟寺とも呼ばれています。


← 雪舟作と伝えられる前庭、
 石組みで鶴と亀を表していて
 「鶴亀の庭」と呼ばれています。


 雪舟が少年時代をすごした岡山県の「宝福寺」は東福寺の末寺であり、雪舟が本山へ来たときには、この寺に起居していました。




           茶室「図南亭」の丸窓から見る東庭 →


 この東庭は、荒廃していた雪舟庭園(南面前庭)を重森三鈴が復元修理したとき、新たに彼が作庭したものです。
 昨夜、僕が見ていた「サライ」の表紙に用いられていたのが、この芬陀院の丸窓の写真でした。このスナップに惹かれて、急な京都行を思い立ったという部分もありますね。


 時刻はお昼過ぎ…。東福寺に戻って、もう一度、巨大な山門をパチリ…。


 「秋、紅葉の盛りに、もう一度呼んでくださいね」と頼んでおきました。
 
 
 

 南区の1号線沿い、中華料理「あたか飯店 京都店」で遅いお昼ご飯を食べて、そのまま南へ下がり、京都南インターから名神高速道路に乗って、帰途に就きました。


 土山SAあたり、前方に浮かんでいるのは夏の雲…? →


 帰りも50分ほど…。夕方には帰り着き、諸見里しのぶの日本女子プロぶっちぎり優勝を見ていました。

                                
  物見遊山トッブへ